管木志雄展「集められた〈中間〉」

青山スパイラルにて展示中の管木志雄の「集められた〈中間〉」を鑑賞してきました。




この日は勤務後に友人と会うためにスパイラルで待ち合わせを。

「集められた〈中間〉」というタイトルに惹かれ、
導かれるような偶然の出逢いでした。
私は管木志雄さんという現代美術家をこの日初めて知りました。

なぜタイトルに惹かれたのかというと、
6月頭に投稿させていただいた「ちょっといいふつう」の解釈と同じようなことではないか、
という予感がしたからです。

 

【下記spiral公式HPより抜粋させて頂きました】
https://www.spiral.co.jp/topics/spiral-garden/3227

菅木志雄展「集められた〈中間〉」
Kishio Suga “Gathered<Intermediates>”

本展に際し、次のアーティスト・ステートメントを記しています。

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「集められた〈中間〉」菅木志雄

モノは、だいたいにおいて、ヒトに無関係な時間を在りつづけている。それはヒトには簡単に理解できないような集積である。

たとえ時間をかけたとしても〈在ることのプロセス〉を感知することはむずかしいと思われる。

時間の長さも、その在り方もである。
わからないながら、ヒトは、アートの名目で、無造作にモノを扱おうとする。

それは、ヒトが創造するには、それを表わすためのモノが必要だと思っているからである。

注意しなければならないのは、
モノは根源的にアートに使用されるためにあるのではないということである。

〈存在するものである〉という意味では、モノも作品も同じかもしれないが、多くの場合モノの始原的な存在性というものは、だいたいにおいて制作の過程で失われてしまう。

それは、本来モノが保有しているべき原質のようなものがなくなるということである。

そうなれば、本質的にモノはモノでなくなり、カタチはあれど本来あるべき存在性は失われる。

作品(モノ)はつねに途中のモノによって、できているのである。

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菅はものは一定に留まっているのではなく、
時間経過とともに動き変容する無常であると捉えており、
本展においてその「もの」がもつプロセスの集合体が作品であることにフォーカスします。

http://tomiokoyamagallery.com/artists/kishio-suga/

 

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私はその日一度では分からずに、今日も勤務の合間に展示を見てきました。

モノから語られてくるもの。
アーティストの意図や伝えたいことは、
自分と作品との対峙・対話の中から時間をかけて湧き上がってくるかもしれない。

作品を前にしているときは余韻だけが残りました。でもふっと帰りに自転車を漕いでいるときに、過去の自分の見た景色を思い出しながら、私なりの解釈が見えた気がしました。

お店のコンセプトでもある「ちょっといいふつう」についても、
菅木志雄さんの言うように、”時間”の経過と共に「ふつう」という概念は揺らぎ、淀んでいるのだと思います。

繰り返しになりますが、昨日の成功や常識は明日には変わってしまう世の中が存在する、ということ。

 

6月13日までで無料のようです。
もし行かれた方は、感想を教えてください。

 

staff 大久