世界を反転させる窓

その美容院には、奥に建つ母屋につながる小さなドアがあります。ドアの先は「奥の部屋」と呼ばれていて、その場所では髪を切るだけではない、いろいろなことが行われてきました。

ある日いつものように髪を切ってもらっていると、奥の部屋のさらに奥にある部屋が最近空き室になって、と彼は急に話しはじめました。なんとそこには小さなお風呂があるのです、と、なんだか声も弾んでいます。どうやらシャンプーや石鹸づくりをはじめていた彼の中で、それらと共にある小さな下宿部屋の暮らしの想像があぶくのように膨らんで、はちきれそうになっているようでした。

それから数日後、僕は紙と色鉛筆を手に、あちこちくたびれてすすけた「奥の奥の部屋」にいました。2,3時間ほど籠っていたでしょうか。清潔な白いタイルでお風呂と台所を少しだけおめかししたスケッチを彼と彼の親しい工務店さんに渡して、ほどなくしてそれはできあがりました。

この場所には二間、畳の部屋もあります。砂壁はひっかき傷だらけだったけれど、そこに流れていた時間の証のように思われて、こちらは真っ白の襖紙とカーテンと、畳を新調する以外に手を入れるのはやめにしました。いえ、もうひとつだけ、誂えたものがあります。この「奥の奥の部屋」の奥には、もう部屋はありません。南東の壁で行き止まり。その壁には敷地を囲むブロック塀を切り取った寂しそうな地窓が、ポツンと空けられていました。スケッチの手を止めてしばらくその景色を眺めているうちに、気づくと手が、裏返しの障子窓をスケッチしていました。内と外が反転した障子を嵌めることで、奥の奥をぐるんとひっくり返したい。そんな気持ちだったと思います。この部屋は彼らの「行き止まり」ではありませんから。

そんなこんなで現れた、「余」のシャンプーと石鹸が常備されたお風呂と、世界を反転させる窓のある下宿部屋。僕もしばらく借りてみたいです。

中山英之

設計       中山英之 (Hideyuki Nakayama Architecture)
施工       西直樹  (TEMPO)
洗面鏡制作協力  甲斐貴大 (studio archē)
テキスタイル選定 谷俊介  (on the shore)